さくまあきらの志望動機は借金返済?有名ゲーム作家が業界にきた意外な理由とは
『桃太郎電鉄』シリーズの作者のさくまあきら氏が最初にゲームをつくったきっかけは、自ら興した出版社の倒産で生じた借金を返すためでした。
当時、そんなさくま氏にゲーム業界を勧めたのが、『ドラクエ』の生みの親である堀井雄二氏であったことはあまり知られていません。
かくいう堀井氏も、じつは漫画家志望だったところを、紆余曲折を経てゲーム制作の世界に身を投じた人の1人でした。
今回は、そんなちょっと変わった業界志望動機を持つクリエイター達のエピソードを、業界志望者へのアドバイスもまじえて紹介していきます。
目次
著名なゲームクリエイター達の意外な業界志望動機
『桃太郎電鉄』のさくまあきら氏や『メタルギアソリッド』の小島秀夫氏は、実は最初からゲーム業界を志望していたわけではありません。
堀井雄二氏も、たまたま前の仕事で取材したゲームのコンテストに入賞しなければ、ゲーム制作とは無縁な人生を送っていたかもしれないのです。
しかし、積極的ではなかったとはいえ、彼らは結果的にゲーム業界を「選択」したことには違いありません。
では、結果的にとはいえ、いったいどうして彼らはゲーム業界を選んだのでしょうか?
もう少し詳しく見ていきましょう。
さくまあきらは借金を返すために業界にやってきた?
さくまあきら氏はもともと編集者志望でした。
若き日のさくま氏は、自分で本を創るために自ら出版社を興したところ、会社の業績が伸び悩んで倒産させることになってしまいます。
資金繰りに困っていたさくま氏に、「ゲーム儲かるよ」と声をかけたのが『ドラクエ』の堀井雄二氏でした。
この頃は空前のRPGブームで、さくま氏も便乗するかたちで『桃太郎伝説』というRPGを制作します。
『桃太郎』などの昔話をモチーフにしたキャラを使用した本作は、続編や外伝が何本も制作されるほどのヒット作品となりました。
このヒットを受け、さくま氏はさらに『桃鉄』シリーズなどを生み出し、ゲームデザイナーの道を歩み始めていくことになります。
小島秀夫は元々映画が撮りたかった
小島秀夫氏は、もともと映画監督志望でした。
本当ならば映画の制作を教えてくれる学校に入りたかったのですが、生まれ育った関西に映画の学校はなく、独学で学ぶにしてもひとまず働く必要がありました。
そこで、小島氏はとりあえず働くために、まずは当時のコナミに入社します。
とりあえずとはいえ、数ある選択肢からゲーム会社を選択した理由の1つが、当時流行していたSTG『ゼビウス』に氏が強い衝撃をうけたからでした。
『ゼビウス』は、当時のSTGとしては画期的な、背景グラフィックに地上の絵を採用したゲームで、小島氏はそこに驚きと可能性を感じたといいます。
また、当時から衝撃の結末で話題を呼んでいた『ポートピア殺人事件』というゲームの影響もありました。
当時、小島氏は小説も書いていて、自分もアドベンチャーゲームを創りたいと思い、思い切ってゲーム会社の扉を叩いたのです。
堀井雄二はライターとして取材したコンテストに応募したことが契機
堀井雄二氏は、最初は漫画家を志望していました。
そのため、母校の早稲田大学では文学部に入学し、サークルは他大学との交流もあった『漫画研究会』に入ります。
しかし、堀井氏の描くマンガは、当時の流行からはかなり外れたものでした。
アルバイトとして、雑誌の挿絵などを描く仕事もしていましたが、所属が文学部だったこともあり、仕事は文章を書くことの方が多かったそうです。
それもあって、堀井氏は卒業後フリーライターとなり、様々な文章を書きながらライターとしての経験値を積んでいきます。
その中で、仕事で取材したゲーム制作のコンテストに興味を持って自分も出品したところ、堀井氏は見事に入選を果たしてしまいました。
そこから、堀井氏はゲーム業界に片足を突っ込み、めきめきと頭角を現していくことになるのです。
無名の新人時代のエピソード
紆余曲折を経て、若き日のクリエイター達はゲーム業界での第一歩を踏み出しました。
しかし、多くの成功者がそうであるように、彼らの成功までの道のりもまた決して平坦なものではありませんでした。
ここからは、若き日のクリエイター達の苦労話を紹介しながら、彼らがそれにいかにして立ち向かっていったかを紹介していきます。
さくま氏の処女作品の企画書はたった3~4枚だった!
さくまあきら氏の処女作品である『桃太郎伝説』の企画書はたった3枚~4枚のものでした。
さくま氏は、企画書を書かないことで有名で、その代わりにとても優れたマーケティングの視点を当時から持っていました。
たとえば、「『ドラクエ3』と同時期に発売したら勝てるはずがない」とさくま氏は最初から思っていました。
そこで『ドラクエ3』よりも先に発売し、さらに中世ファンタジー風であった『ドラクエ』に対し、和風RPGで勝負しようと彼は考えたのです。
果たして、この作戦は見事に成功し、「桃太郎伝説は100万本ぐらい売れたと思う」とさくま氏は後に日記で語っています。
しかし、「桃太郎は金太郎と出会わない」などと当時のPTAから苦情が来るなど、順風満帆とまではいきませんでした。
それでも、徹底したユーザー目線に立ったさくま氏の作品は、徐々に保護者世代にも受け入れられていきます。
「子供が『桃鉄』のおかげで社会のテストでいい点をとった」などの評価を得ていくことで、いつしか『桃鉄』は国民的ゲームの地位を築き上げたのでした。
マイナー部署に配属され苦労の連続だった小島氏
コナミに入社した小島秀夫氏が最初に配属されたのは、MSXという当時はマイナーなゲーム機のソフトを開発する部署でした。
『ゼビウス』に感銘を受けて業界に足を踏み入れた小島氏にとって、しばらくは不遇の時代が続いたともいえます。
しかし、小島氏はそこでくさらずに、好きだった映画のエッセンスをなんとかMSXで再現できないかと試行錯誤を始めます。
そうして1987年に発売されたのが、後に世界的な大ヒット作品となる『メタルギアソリッド』の原点となる『メタルギア』でした。
多くの敵を表示できないハードの限界を逆手に取り、あえて『潜入』という要素をゲームに組み込んだ本作は絶大な支持を集めました。
そして、苦労の末に生まれた『メタルギア』のヒットを契機として、小島氏は『スナッチャー』や『メタルギア2』などの今なお評価の高い作品を次々と世に送り出すことになるのです。
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副業が忙しすぎて本業になった堀井氏
当時はまだフリーライターとして活動していた堀井雄二氏の生活は、『ドラクエ』のヒットで一気に多忙を極めることになりました。
その頃、『月間アウト』という雑誌で「ゆう坊のでたとこまかせ」という人気コーナーを担当していた堀井氏は、徐々に連載が追いつかずに休載をすることが増えてきます。
さくまあきら氏を業界に誘った堀井氏ですが、その本当の理由は「当時の辛さを分かち合う仲間が欲しかったから」と後に告白したほどハードな日々を送っていたのです。
やがて、「ゲームの仕事が忙しすぎて時間が取れない」ことを理由に、堀井氏は連載を終了。
そして、『ドラゴンクエスト3』のスマッシュヒットをきっかけに、専業ゲームクリエイターとして道を歩み始めることになるのでした。
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有名作家が語った業界志望者へのアドバイス
多くの人々に愛される名作が生まれた裏には、数々の苦労とそれを乗り越えようとする努力がありました。
そこで、最後は、様々な苦労を経て現在の地位を築いた有名クリエイター達が、若手業界志望者に送ったアドバイスをいくつか紹介していきたいと思います。
失敗を恐れてはいけない(さくまあきら氏)
さくまあきら氏は、業界志望者向けの書籍インタビューで、「若手に失敗を恐れるな」とアドバイスを送りました。
引用:「若いうちは失敗しろ! それも、進んで失敗しろ(笑)!」
引用元:ゲームデザイナーの仕事(著・前田圭二)
さくま氏は「進んで失敗しろ」と積極的に「挑戦」することの大切さを若い人達に語っています。
その理由も、「若いうちに失敗をしておかないと、年を取ってから立ち直れないようなでかい失敗をしちゃうんだ」とさくま氏は説明しました。
これは、編集者となる夢を追いかけ、会社を倒産させるという大きな失敗を経験したさくま氏ならではの非常に含蓄のある言葉だといえるでしょう。
1日1本映画を観る(小島秀夫氏)
小島秀夫氏は、制作スタッフに1日1本映画を観るように言っているといいます。
引用:「スタッフにも映画からたくさんのことを学んでほしいという思いは、今も昔も変わらない」
引用元:ゲームになった映画たち(著・吉田武)
小島氏は、かつて『小島ビデオ』とあだ名がつくほど、よくビデオを観ていたそうです。
それこそ1日1本を観るほどの勢いだったので、自然と観ていて疲れないC級映画が多くなったと小島氏は当時を語ります。
引用:「有名映画のタイトルを真似した、中身のない映画とかなんですけど、そんな作品の中でも学べるものって幾らでもあるんです」
引用元:ゲームになった映画たち(著・吉田武)
確かに、映画というのは、ゲームよりも遥かに昔から存在し、長く愛され続ける娯楽の1つです。
エンターテイメント業界を目指す人にとって、そこから学び取れるものが非常に大きなものといえるでしょう。
必要なのは発想力、忍耐力、そして勇気
堀井雄二氏は、2016年に横浜で開催されたコンピューターゲーム開発者向けのイベントで、ゲームデザイナーに必要なものを3つ挙げています。
引用:「まず、自分が面白がるものを考える“発想力”は大前提とした上で、それをシステム化することの“忍耐”、そして「せっかく作ったから……」ともったいがらずに、これは違うと感じたものを捨てる“勇気”」
引用元:
[8]https://japan.cnet.com/article/35088410/3/(堀井雄二氏がドラクエ30年の歴史とともに語った”ゲームデザイナーに必要なもの” – (page 3))
実際、堀井氏はそれまでに目指していた漫画家の道から離れ、ライターとして修業を積み、やがて『ドラクエ』を生み出しました。
あるインタビューにて、「堀井さんは漫画家とゲームクリエイター、どちらが合っていたと思いますか?」と訊かれた氏は次のように答えています。
引用:「ゲームでよかったと思います。こっちの方が、むしろ合っていたなと」
引用元:
[5] https://www.waseda.jp/inst/weekly/features/specialissue-draque1/(アレフガルドに至る道『堀井雄二 インタビュー』)
堀井氏は自身を「いたずら好き」と称することが多いです。
ゲームはインタラクティブな娯楽であり、ユーザーの反応を予測することを求められます。
そんなゲーム業界は堀井さんにとってまさに天職だったといえるでしょう。
まとめ
『桃鉄』、『メタルギア』、『ドラクエ』などを生んだクリエイター達は、初めからゲーム業界を志していたわけではありません。
しかし、彼らは思い通りにいかない現実に挫けることなく、やがて誰もが知る名作を生み出しました。
彼らに共通しているが、3人とも、とにかくユーザーを楽しませたいというエンターテイナー気質の持ち主だということです。
それは、3人が若手業界志望者に送ったアドバイスを見てもよくわかることでしょう。
これから業界を目指す人は、そんな3人の生き様や物の考え方を是非参考にしてみて欲しいと思います。
参考資料等
キーワード:「ゲーム 業界 志望 動機」
脚注:
参考文献:
[1]ゲームシナリオライターの仕事(著・前田圭士) [2]ゲームデザイナーの仕事(著・前田圭士) [3]ゲームになった映画たち(著・吉田武) [4] アイ・オー 1983年3月号(工学社)
参考URL:
[5] https://www.waseda.jp/inst/weekly/features/specialissue-draque1/(アレフガルドに至る道『堀井雄二 インタビュー』)
[6] https://www.waseda.jp/inst/weekly/features/specialissue-draque2/(人生は他の誰でもない自分だけのRPG)
[7]https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/momotetsu/2(「どんな子供でも遊べなければいけない」 黄金期のジャンプ編集部で叩き込まれた”教え”が生んだ大ヒットゲーム「桃太郎電鉄」)
[8]https://japan.cnet.com/article/35088410/3/(堀井雄二氏がドラクエ30年の歴史とともに語った”ゲームデザイナーに必要なもの” – (page 3))
[9] http://sakumania.com/diary/nikki/101121.html
(さくまあきらホームページ)
ライター情報
ライター名:shrimp
プロフィール:メカとゲームを愛するフリーライター。今、欲しいものはPSVR。
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