『Dの食卓』のクリエイターとして知られる飯野賢治とは?


EIM、ワープ、フロムイエロートゥオレンジ等で代表を務めたクリエイター、飯野賢治。
42歳で急逝した飯野氏でしたが、『Dの食卓』を始め奇抜な作品を世に送り出し、ゲーム業界の風雲児として注目されました。本記事では飯野氏の経歴と代表作について解説していきます。

飯野賢治とは?

飯野賢治氏は、株式会社フロムイエロートゥオレンジの代表取締役社長を務めたゲームクリエイターです。
1970年に東京の荒川に生まれ、1988年にゲーム制作事業を行う有限会社インターリンクに入社した翌年、ゲーム受託会社のEIMを設立しました。その後1994年には株式会社ワープを設立し、3DO専用ゲームソフト「Dの食卓」で鮮烈なデビューを果たします。「Dの食卓」は、マルチメディアグランプリ’95通商産業大臣賞を受賞するなど話題を呼び、飯野氏は日本を代表するゲームクリエイターとして世間に名を轟かせていきました。

 

その後2000年には株式会社スーパーワープを設立し、小説家、アプリ開発者としても活躍。洗練されたUIや直感的な操作、テクノサウンドとSEを駆使したアプリ「newtonica」を2008に発売すると、世界的にも大ヒットを起こします。
今後の活躍も期待されていた飯野氏ですが、2013年2月20日、高血圧性心不全により、東京都内の自宅で死去されました。享年42歳でした。

経歴

東京都荒川区に生まれた飯野氏でしたが、名前の「賢治」は文豪『宮沢賢治』の名前からとったと、後に飯野氏の父親が語っていたようです。
幼い頃は英才教育の幼稚園に入りましたが、小学校2年で母親が失踪した後は、父親と2人暮しをしながら過ごしていました。小学生のころ初めて購入したパソコンで作成した『十和田湖殺人事件』をゲームコンテストに応募したところそれが入賞、その後高校中退、大学入試資格検定等を経て、1988年にゲーム制作会社有限会社インターリンクに入社します。

 

インターリンク入社後にHAL研究所に企画を持ち込んだ際、そこのスタッフに法人化を勧められ、1989年に友人らと共にゲーム受託会社有限会社EIMを設立し、並行しながらバンタンデザイン研究所、代々木アニメーション学院でゲーム講師を勤めています。
そして1994年に設立した株式会社ワープにおいて、代表作である『Dの食卓』をリリ―ス。そして97年には『リアルサウンド〜風のリグレット〜』、97年には『エネミーゼロ』をリリースします。
その後2000年にはスーパーワープを設立、名称を変更しフロムイエロートゥオレンジとして、自販機の自動決済や、デパートのタッチパネル案内板などの作成などを行います。

 

先述した『newtonica』は、2008年8月25日に『moon』のクリエイターでもある有限会社Route24代表の西健一と共同開発したアプリであり、発売直後に日本のApp Storeランキング1位、世界各国でもチャートインするなど好評を博します。

 

その後、かねてより肥満体型だった飯野氏は後に大幅な減量に成功し、当時危惧されていた高血圧の原因は解消傾向にありました。しかし、2013年2月20日午後9時42分、高血圧性心不全のため東京都内の自宅で死去。業界の異端児と呼ばれたクリエイターは、42年の生涯を終えました。

飯野賢治が手掛けた作品

『Dの食卓』

『Dの食卓』は、飯野氏が株式会社ワープ代表時に発売されており、1995年4月1日に発売された3Dアドベンチャーゲームです。
一人称で進行するこのゲームは、各イベントが発生すると映画のようなカメラワークで、臨場感を盛り上げてくれます。
ゲーム中では、母親の形見の「コンパクト」や「時計」の他、様々なアイテムがあり、そのアイテムを要所で使用しつつ攻略していきます。
主人公は、凶暴化して医療スタッフを射殺し病院に立てこもった父親を説得する事を目的として進めていき、当時ゲーム業界では珍しかった3DCGで「映画」を意識した演出を行った画期的な作品として注目されました。

 

本作は、マルチメディアグランプリ’95通商産業大臣賞を受賞しており、ゲーム誌『ファミ通』のレビューにおいてゴールド殿堂を獲得。全世界で100万本を販売したと言われています。

エネミー・ゼロ

『エネミー・ゼロ』は、1996年に発売されたセガサターン用のゲームソフトです。1997年にはサタコレとして再発売も行われ、1998年にはWindows98にも移植されました。企画、脚本、監督を全て飯野氏が務め、累計販売本数は60万本と言われています。

 

ゲームはアドベンチャーパートと、アクションパートに分かれています。
アドベンチャーパートでは、アイテムを収集したり情報を得ながら謎を解決していく事で進行し、シーンは3Dレンダリングのムービーと静止画を繋ぎ合わせて表現されています。
アクションパートでは、ゲーム内に登場する敵である「エネミー」と戦う事になりますが、アイテムの「VPS」を使用しない限りその姿は見えません。
現在のFPSゲームのようにキャラクター視点で操作をしつつ、相手との距離や位置を推定しながら戦う必要があります。
アドベンチャーパート、アクションパート共に、当時の同ジャンルゲームの中でも比較的難易度が高かったと言われています。

まとめ

これまで革新的なゲームをリリースしてきた飯野氏の死去は、ゲーム業界にとっては大きな損失でした。しかし、そんな飯野氏に憧れたゲームクリエイターは多く存在し、その人たちによって現在のゲーム業界も進化を続けています。

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