【前編】『バーチャファイター』『シェンムー』を生み出した伝説のゲームクリエイター・鈴木裕氏へインタビュー!
2019年11月に待望の『シェンムーⅢ』が発売され、いまますます注目を浴びている鈴木裕氏に、ゲーム制作への姿勢や今後の展望、またゲーム業界のキャリアについてお話を伺いました。
前編では鈴木裕氏の学生時代から、セガで体感型ゲーム『ハングオン』、3D対戦型格闘ゲーム『バーチャファイター』の開発時代について詳しく伺っています。
●体感型を極めた第一世代から3Dへと変化した第二世代
――まずは鈴木裕さんの概歴からお伺いしていきます。学生時代からプログラムにご興味を持っていたと以前のインタビューで拝見しましたが、どのように進路を決めたのでしょうか。
小学校の先生になろうと思ったり、歯医者さんになろうと思ったり、色々な夢を持っていました。
ギタリストになろうと頑張っていた時期もありましたが、自分よりギター上手い人がプロデビューしてもやっていけていないのを見て、僕じゃ無理だと思って諦めたりもしました。
そういった紆余曲折を経て、将来性がありそうな職業のなかで選んだのがプログラマーでした。
就職に少しでも有利になるよう、大学の研究室では3Dを使った建築をやっている研究室に入って、プログラムを勉強しました。
FORTRANという言語で、パーソナルコンピュータもPC-8000とか88くらいしかない時代です。
大学には大型のコンピュータがあって予約すると使えるのですが、次の人が順番待ちをしているので長時間使えないんです。
まだ完成していなくても、立ち退かないといけない。
だからスピードが遅くてもいいから自分のコンピュータが欲しいと思い、パーソナルコンピュータを買って、その時についていたプログラム言語のベーシックが面白かったです。
そこからいろんな言語に手をつけて、趣味的にプログラムをやっていました。
当時は3Dといってもワイヤーフレームみたいなプリミティブなものしか作れませんでしたが、思ってもないような姿が画面上に現れるのが面白かった。
平面図とか立面図、側面図なんかをデータとして入れると、立体が出て来る。
こういった建築のシミュレーションを研究室で作成したり、プログラムいじったり、遊びでちょっとゲームを作ったりしました。
――セガへはどのような経緯で入社されたんでしょうか。
実は、ゲームが好きでゲーム業界に入ったという訳ではなかったんですよ。
セガに入社を決めたのは、週休二日制だったからです。
1983年入社ですので、土曜日出勤の会社が一般的な時代で週休二日制は僕にとって魅力的に感じました。
なぜかというと、もともと考え方が大人っぽいというか、悪く言うと冷めた性格だったので、仕事に対して大きな期待をしていなかったからです。
当時テレビドラマで同窓会のシーンがあると、上司の文句とか会社の文句ばっかりなんです。
会社で働いている9割方の人は、同じ状況なんだろうなと思っていたから、僕が「この会社に入れてよかった」となる確率も1割しかないんだろうと。
だから仕事ではなく、趣味をメインにして生きようと思っていました。
週休二日制でかつ将来性のある職業がいいなと、SEという大型コンピュータを扱う仕事を中心に就職活動していました。
そんな時に友人から「ここも週休二日制だよ」と教えてもらったのがセガでした。
ゲームにそんな興味があった訳ではなかったんですが、軽い気持ちで面接を受けに行ったら、すごく面白い会社でした。
入社後に知ったことなのですが、当時の面接官の方は営業トークがとんでもなく上手で伝説の人物だったんです。
その人の口車にのってしまったんです(笑)。
僕は趣味で音楽、バンドもやっていたし絵も描いていたし、プログラムもやっていた。
だから開発の3部門のどこに入ろうかなと思っていたんですが、二次面接で上司の方にプログラミングをすすめられて、ソフトウェア部門で就職することになりました。
それで入ってみたら、仕事が楽しいんです。
実際にいい会社だったので、僕は「この会社に入れてよかった」と思える1割の人になれたんです。
学生時代に線路の砂利交換とか、家庭教師とか、あとはバンドの出演料とかで結構稼いでいましたので、セガに入社後月収はがくんと落ちました。
でもセガに入ってみたら研修期間は、机に座っているだけ。
しかもプログラムを教えてくれて、その上、給料をくれるんですよ。
こんないい会社があるのかと思いましたね。
――鈴木裕さんが「この会社に入れてよかった」と思える1割の人間になれた要因は何だと思いますか?
ひとつは上司に恵まれたということですね。
いま振り返ると、最初はソフトの仕事なんか何もなかったんです。
荷物を運んでくれとか、店舗の手伝いしてくれとか、モニターをバラしてくれとか、ムービングキャビネットの負荷テストするから骨組みに捕まってくれとか(笑)。
最初の仕事、重り?ってなりますよね(笑)。
でも学生時代のアルバイトよりずっと楽だし、いい会社だと感じていたのでどちらかというと感謝の気持ちが強かったんです。
だから割と上司の言うことに、ハイハイ言って積極的に働いていました。
そういったこともあって、上司も先輩も僕に頼みやすかったと思うんです。
そうすると飲みに誘ってもらったり、泊りに来いよって言ってもらったり、仲良くなるじゃないですか。
仲良くなると、セガのここはこうでこの人はこう、といった情報が入って来る。
それが何をやるにせよ自分のプラスになっていきましたね。
急がば回れ的な感じでした。
最初は重りから始まりましたから(笑)。
――周りの信頼を得て、コンシューマのプロジェクトリーダーに抜擢されたのですね。
1983年にセガに入社して、翌年1984年にSG1000というゲーム機の『チャンピオンボクシング』というものを作りました。
その当時のセガは、プロジェクトのリーダーになるのに大体7年かかっていたのですが、上司がやってみろよってチャンスをくれたんです。
――2年目でリーダーは当時異例だったのですね。現場では相当な苦労をされたのではないでしょうか。
僕と新人のプログラマーとデザイナー、3人の小規模チームで、なにしろ本格的なゲームを作るのははじめてだったので、思いがけない事も多々ありました。
――次に体感ゲームシリーズの制作に携わられましたよね。
業務用に比べて開発の人数も少なく、失敗しても会社へのダメージが少ないコンシューマの、小規模プロジェクト開発から始まって、次はアーケードの開発を行いました。
アーケードになると、今度はコインオペレーションゲームになります。
5000円払って遊ぶコンシューマゲームって、ちょっと遊んで5000円捨てるって訳にはいかないから、ある程度は遊んでもらえるんです。
でもコインオペレーションのゲームは、100円玉を入れてちょっと面白くなかったり、操作がわからないと、次のゲーム機に移ってしまう。
だから100円入れて説明書読まなくてもできるゲーム、を理想として作っていました。
――子どもの頃、『ハングオン』をプレイしている人を見ているだけで、バイクのこと何も知らなくても格好いいなぁって思えました。
あの当時は、ゲームが教育の敵だったんです。
地下の喫茶店で不良がタバコを吸いながら、コイン積んでスペースインベーダーやっているアンダーグラウンドのイメージが強くありました。
だからゲームをプレイしている人の姿を変えられたらいいなと思っていました。
バイク型の大型筐体にまたがってゲームをしていると、ちょっとスポーティな感じしませんか。
アンダーグラウンドな状態から脱出して、もう少しエンターテインメントとして見られるように、プレイしている姿を変えていきたいというのがありました。
すこし、今までのゲームより、健全な感じがしましたから。
――確かに格好いいから俺もやろう、というモチベーションがありましたね。『スペースハリアー』なんかも、上手い人がプレイしているとギャラリーができていました。
以前『ハングオン』の企画書がぽろっと出て来たことがあって、久しぶりに読んでみたらビックリしたんですよ。
ターゲットユーザーという項目に、「16歳・男」って書いてあるんです(笑)。
免許取れなくて、でもバイクに乗りたい、そういう男の子だけをターゲットにしている。
よくこんな企画書通ったなって思いましたね。
でも面白いのは、そこまでフォーカスして作っているからこそ、できたものが尖がるんですね。
「なんでも美味い」というレストランより、「マグロだけは負けない」と言っている食堂のほうが、期待度が上がることと似ています。
多分僕のゲームって、大なり小なりそういうところがあるんだと思うんです。
だからターゲットユーザーを思い切り絞るのは、それはそれで悪いことじゃない。
分かりやすくて特徴がはっきりするから、セールスもしやすくなりますしね。
――次の転換点としては、バーチャファイターでしょうか。
『ハングオン』から始まって、今までテーブルタイプのゲームが主流だったところに体感ゲームというジャンルを作っていきましたが、最初はリスクヘッジの関係で予算も少なく、ムービング機構やモーターも入っていませんでした。
メカトロニクスの部隊の人が持っていた夢に向かって、僕らもそれにピッタリのゲーム内容というのはどういうものだろうと考えながら、全社一丸となって動いていました。
その後『スペースハリアー』でモータードライブを入れて、最終的にR360というノーリミットでグルグル回る筐体までたどり着きました。
地球駒みたいに無制限に回るという、大きな最終目標を達成してしまいましたから、
直撃の刺激を与える方法はもう限界点まできてしまった。
だから次は、錯覚だけで人を転ばすということに注力することに変化していきます。
3Dで正確なパースペクティブの表現をして、CGによって新たな手法を開拓する時代の幕開けです。
先にお伝えした通り3Dは僕が学生時代から触れていますし、体感ゲームもハングオンから内部は全部3Dだったんですよ。
最終的にスプライトで、目に見える部分だけ2Dにしていただけなんです。
それがとうとうバーチャレーシングの時にオール3Dのボードができた。
そういう意味で、体感ゲームの第一世代が終わって次に第二世代、3Dの時代に突入したのです。
3Dといっても『バーチャレーシング』とか『バーチャファイター1』は、フラットシェーディングと言って、三角形のポリゴンが1色でしか表現できません。
他社さんの某格闘ゲームでは素晴らしいグラフィックスを売りにしている一方で、我々は絵を使えませんでした。
でも、段ボール箱みたいなキャラが殴ったり蹴ったりしているけれど、動きだけは恐ろしく綺麗で、スムーズなんです。
そこがまた尖っていたんだと思います。
――動きが綺麗だったから、ゲームをしていると勝手にビジュアルが補正されていくんですよね。
『バーチャファイター1』の時はたまたま毛色が変わったものが出てきたな、と思っている人がいて本当に3Dの時代が来るのか皆が半信半疑でした。
そんななか僕は必ず3Dの時代がくると信じていました。
CPUの能力が上昇するカーブを考えると、いつごろにそうなるのかも見えていましたし、3Dの表現は映画をずっと追いかけていくんだろうなとも思っていたので、映画を見ていればゲームの将来も予想することができました。
それが皆にもはっきり伝わったのが、多分『バーチャファイター2』からなんです。
そこでテクスチャマッピングという技術が導入されて、3Dのゲームにも業界で培われて来たグラフィクスがそのまま使えるということが証明されました。
僕はその時に、すべての2Dゲームが3Dでもう一回復活すると考えていました。
2Dで煮詰まっていたゲーム業界で、すべてのジャンルが3Dでもう一回生き返ると。
――映画的なムービーシーンが挟まるゲームはありましたが、鈴木さんの作品は全部介入できるところに面白さがありました。
リアルなムービーとクオリティの低いゲーム画面が繋がっていると、違和感がありませんか。
僕は昔、某有名野球アニメで急に実写が混じることがあって、強烈な違和感がありました。
ああいう表現は個人的に嫌いで、自分の作るゲームには統一感を持たせたいと思っています。
僕がゲーム作りで大切な事は、世界観の統一なんです。
だから全体的なクオリティが落ちても、統一感を優先してしまう。
でもいまは技術も進歩して、クオリティとの両立ができるようになりました。
(後編へ続く)
ゲーム業界経験者が転職するなら
GAME CREATORSを運営しているリンクトブレインでは、ゲーム業界に特化した転職エージェントサービスを提供しています。
ゲーム業界に精通したコンサルタントが、非公開求人を含む3,400件以上の求人の中から、あなたの希望や適正にあった最適な求人をご紹介します。
あなたの転職活動を成功に導くためにサポートいたしますのでお気軽に登録してください!